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| 240「流れる雲、風の音…」 |
| 終日北風ヒューヒューと肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける。 空は高く青空も覗く、流れる雲は地上の風のように速くない。 一見みた目とちぐはぐな空模様でありながら突然の冷え込みである。 その日は2月晦日28日高倉荒神様の日のお天気であった。 昔からこの日は、雪や霰さえも降る寒い荒天がほとんど常習である。 だから雪が舞い寒さが厳しいほどに、お百姓さんは「これで今年も豊作じゃろう…」と頷き、また町の人は荒神様が過ぎると「これで寒さも和らぐから…」と冬の峠を一つ越えた安堵の気分になっていたものである。 今年は史上希な暖冬異変、荒神様の北風もあまり気にならないまま過ぎる。そして急にまた暖かくなったと思えば、寒の戻りのように雪や寒風の予報も伝えられる。 総じてこの冬はぬるま湯に入り、温めたり冷やされたりで心身ともにモヤモヤ、シャキッとしない。 家の中をウロウロして気晴らしの手立てに、住人と同じく古くなり既に寿命の尽きた家具のような文具、枕許の電気スタンドと書斎の椅子をこの程新調することにした。 いずれも子供のお古で払い下げをうけて既に20数年、相当に年代物でしかも旧式。電気スタンドはつまみをいろいろ回しても点かないこと度々、遂に新調やむなし、今度は蛍光灯で見違える程パァーと明るくなった。 新しい椅子は前後、左右自由に動き、しかも背もたれ、肘掛けつきでかつてのお古に比べると雲泥の差の快楽椅子である。 目下夕べは早々と床につき明るいスタンドで眠りを誘う読書、新しい椅子には再々ふんぞりかえって窓からの空を仰ぎ、流れる雲、風の音に気を晴らす。 (満) |
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239「自然の理」 |
| 自動車を冬用タイヤに取り替えたのが去年の暮れも早い頃であった。 いつ道路に雪が積もっても凍り付いても、さぁー来いと意気込んでいたが一向にその気配はなく、とうとう春一番が早々と去る14日に吹き抜ける。 もう普通タイヤに戻して大丈夫と思うが、2月一杯はいつものことだからそのままにしている。 暦では小寒から大寒と巡りくるも今年の冬は珍しく寒中見舞いの便りを出すことも頂くこともなかった。 そのうち、あれよあれよという間に土筆や蕗の薹が話題になり、象頭山の渡り烏もまだいてもいい筈がとっくに北に帰り静かになる。 そんなおり、たまたま読んでいた戦国時代の小説、ある豪族の若殿に老臣が生きる知恵を語りかける次のような下りがあった。 老臣が若殿に対し、「自然の理ということをご存知でしょうか? 世の中というものはある法則によって動いて居ります」 若殿が老臣に問う、 「法則とは?」 「自然にかなった動きであります」 「自然にかなうとは、どういうことだ、春の次に夏が来て、そして秋が…」 「左様、秋さびれば冬…これが自然の動きでありましょう。この動きは、誰の力をもってしても変わりません」 「当たり前だ」 「左様、その当たり前が自然でござる」… 戦国時代は500年余の昔、自然の理、変わることのない四季の移りを、人の世の行動規範としていたことのひとこまである。 暖冬異変いささか気になる現象。ただ凌ぎ易い冬であっても、厳寒の冬を越してこそ春への喜びは大きい。 自然の理にかなうとはやはり雪降る冬を懐かしむ。 (満) |
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238「現状維持…」 |
| 1月の暖冬は3月中旬並みの陽気であったとか、冬にしては凌ぎやすいものの反面無気味な感じさえもする。 2月に入り途端に寒波来襲でふるえあがるが、立春の4日にはまた暖かな陽気で、寒暖定まらぬ空模様の往来がこのところ続いている。 その遠因は地球規模の温暖化による異常気象の影響らしい。さらに温暖化の要因は地球上に跳梁跋扈する人類の仕業が既に明らかである。 なんとか温暖化の増大を防ぐことは勿論、せめて現状維持につとめ地球の安泰を図ることが急務である。 話は急に地球から小さな我が身のことに及ぶが“現状維持”こそ大事でしかも幸せであることに気付かされている。 既に5年前、前立腺の診断で毎日一粒の薬を服用し続けている。はじめの頃一向に快復の兆しなく、先生に薬の効能を尋ねる。曰く「ああこれは現状維持だから、経過はいいですよ」。はてさて薬の名称は「ハルナール」春が来るようで飲む度に心弾んでいたものが、現状維持ときいてしょんぼり。しかし今日に至るも現状維持で経過良好、多くの同輩に前立腺癌に罹患の苦しみを耳にするとき、まことにもって幸せというべきである。 女房目下目薬を1日4回寝転んで注している。「それはどねぇーなるのか?」と聞くと「現状維持なの…」と達観の返事、白内障進行を遅くすることらしい。 目下我が家の両人、認知症の顕著な進行中を自覚している。 なんとか現状維持の対応を急がなければと思っている次第。 代わり映えのない平凡な繰り返しこそ現状維持にして平常。戸惑う冬の次にはいつもの艶やかな春の訪れをこいねがう。 (満) |
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237「十二支動物の順番」 |
| 年年の十二支の動物、その順番は誰がどうして決めたのか、今もってわからないままでいる。 今年は十二支のしんがりで亥、猪である。 ひと回り前の亥年は平成7(1995)年で1月には驚天動地の阪神大震災が起こった。 もう一つ干支の十干十二支の組み合わせで今年は丁亥、その一巡り60年前が昭和22(1947)年である。 いま話題の団塊世代第1期生の誕生年でその諸兄姉は、今年人生の一区切りという還暦を迎えられることとなる。 さて私の気になる十二支動物の配列順位について、諸種図書館で調べてもらったが結局、童話絵本によって知ることができた。そのあらすじは、「昔ある年の暮れ神様は動物たちに、正月の朝御殿に来るように、来たものから12番まで順番に1年ずつその年の大将にする」とおふれを出された。動物たちは自分こそ一番のりだと大騒ぎ。 牛はのろいので前の晩から出かける。それを耳にした鼠は牛の背中に乗り、朝方御殿の扉が開き牛が入ろうとすると鼠は飛び越えて一番のり、牛は2番になった。 駿足の虎、兎さらに雲に乗った竜が続き、蛇は動物たちに踏まれるのを避けてうまく滑り込む。 馬、羊、狐、狸、鹿、狼、栗鼠、鶴、亀、鼬はいっしょに出発、互いにぶつかり、躓き、転んだりして御殿に着いたのはついに馬と羊だけ。 猿と犬は喧嘩の仲裁役に鶏を間にして同道。猪は猪突猛進、御殿の門前をいきすぎて引き返し到着。そこで十二支の頭数がそろった。よって順位は鼠牛虎兎竜蛇馬羊猿鶏犬猪となったとさ。 猫は鼠から御殿参上の日時を違えて教えられ、生涯鼠を恨むとある。 長年の難問やっと解明しひと安堵。 (満) |
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236「夢」 |
| 人間は自然に順応しあるいは防御し、また抗ってまで巧みに生きている。 また今日と明日の間にさしたる差異も懸隔もないのに時間という区切り、日月に暦という節目を練りに練って先人はつくりあげてきた。 おかげで日日の暮らしに時に応じた抑揚と生きる張り合いを我々は授かっている。 今年も亥年の正月を迎え、猛猛しい猪の年にしては正月三が日、穏やかな暖かい年明けであった。しかし6日の寒入りになると暦どおり寒波が日本列島を覆いとりわけ北の方が大変である。 正月は子供が帰り普段より賑やかで、食事も多少ご馳走であったがそれも束の間に過ぎてゆく。 床の間の正月飾りは鏡餅、すでにウラジロは水気を失い葉先を丸めてしょんぼり、ユズリハは泰然として威張っている。 掛け軸は読みづらい草書の漢詩。 鶴舞千年松 亀遊万年池 中国の不老長寿を願う鶴亀、千年万年の伝説によるもので長寿をことほぐ詩である。これは大分前に義弟から貰う、その当人は去年半ばに逝く。そのため新年は喪中であったがその挨拶状を失礼したので、年賀状はいつも通りいただき大変恐縮いたしております。 さて子供の頃の正月は「お前年は何ボになったのか?」と問われるのが習わしであった。いまでいう数え年の区切りが正月である。したがって年を重ねた正月は、残り時間の少なくなったことへの感慨もなくはない。 しかし人間、何ごとも思いよう一つ、還暦で新たな2巡目の人生再出発と思えばまだまだ夢の一つや二つもてそうである。 そうすると我、2巡目の新成人(80)にあと一息一富士二鷹三茄子≠フ夢、いささか貪欲であろうか。 (満) |
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235「年年の営み」 |
| 1年の営みを終えた庭木は年の暮れ12月中にいつも剪定をして貰っている。まるで見違えるようにさっぱりとした装いになり、いつ正月が来てもいい顔付きである。 今年は総じて、高温、小雨、長い酷暑の夏、おまけに潮風を含む台風にも遭い、庭木にとって決して順風な営みの1年ではなかったであろう。 梅の実は十分に実らないまま小粒のうちに落ち、新芽の枝だけがやたら天を突いて伸び放題。 コブシも花は咲いたが実はサンゴ色に実ることなく早々に黒ずんで落下、葉っぱもくすんだ色合いのまま散る。 モクセイにいたっては花は咲けども香り放たずという全く拍子抜けの秋彼岸過ぎであった。 紅葉が見物のモミジ、ドウダンツツジ、ハゼなどは、台風の塩害で光彩を放つことなく惨めな形振りで裸になってしまう。 片やモクセイを除く常緑樹のカイヅカイブキ、ユズリハ、クロガネモチ、サザンカなどは全く異常なく平気な顔で存分に枝葉を広げてきた。 庭木の剪定はこの1年の労苦の垢をばっさり削ぎ落とし古きも若きも生々とした気分で、また新たな年に向かって生い茂ることを願っている。 さて我が住人のこの1年、庭木のように花実をつける齢はとうに過ぎ、枝葉を伸ばし広げる体力も既になし。 ひたすら平常な心と体調の維持に努めることが1年1年の営みということであろうか。せめて目に見える営みといえば、畠で玉葱とじゃが芋を収穫し、今苗植えを済ませて、来年の春先に向け厳しい冬越しの健気さを見守るのみである。 そうしてみると庭木の方がはるかに偉い、老木といえど年年の営みに変わることなし。庭ではいまサザンカ・ワビスケ花盛り。(満) |
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234「子供はたから」 |
| 隣近所から子供の燥ぐ声や駆け回る足音を耳にするのが、今では全く珍しいことになってきた。 将来を慮る日本の少子高齢化社会は、町内の小さな我が班にもここ30年ばかりで如実にその様相を呈してきた。 子供の声や姿がなくなるとその地域の風は索漠とした感じである。 ところが最近、近くに新しい団地ができて、次次に家が建ち町内に一つの班が誕生した。 入居者は殆ど若い世帯が多く、よちよち歩きの子供や、赤ちゃんを抱っこしたお母さんの姿も見かけられる。 町内に新鮮な息吹を感じるとともに、先だっての町内年末大掃除にはこれまでの年寄衆に初対面の若者衆が加わり、皆んな大助かりで喜ぶ。 新たな団地そばの小路を通ると、庭で土弄りの子供に出会い「今日は」と声をかける。怪訝な上目づかいで眺められるがそのうち「にこっ」と笑顔がかえってくる。 10倍も若返った気分になり、今この国で子供は宝であることをしみじみと思う。というのも子供の悲惨な事故、事件の連鎖的なニュースにやりきれない思いでいる昨今、健やかな子供の笑顔はまことに心和む。 とにかく大人による子供の惨殺は許せない。 通学路での誘拐殺害、幼稚園児の集団歩行に自動車の突っ込み、飲酒運転による轢き逃げなど。さらに親の我が子に対する虐待に至っては、愛育の本能までも失った卑劣な所業というほかはない。 日本民族の人倫、これほどまでに地に落ちたかと愁嘆の思いである。 さらに若者を失う学校のいじめによる自殺はなんとしてもとめなければ。 子供達よ、みんなちがってみんないい” あのみすゞさんの詩をかみしめて欲しい。 (満) |
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233「晩秋」 |
| 家から5分とかからないスーパーは、殆ど毎日女房が総菜の原材料を買いに通っている。 顔見知りの常連も多く、レジのおばさん達とも馴染みである。たまに一緒に行くと女房連がペチャクチャ喋っている。 「こねぇー急に寒うなっちゃーやれんねぇー」 「ほんとに、ついこの間まで暑い暑いというちょったのに」 「それえね、下着を夏冬どっちにすりゃーえーかわかりゃーせん」 確かにこの夏は長くてひどい暑さであった。 その夏盛りの頃は「こねぇー暑うちゃーやれんねー、ハァー脱ぐものはありゃーせん…」 大体この頃の時候の挨拶は、恨みつらみの愚痴を言い合って憂さを晴らしている。 11月も中旬に入り朝夕急に冷え込み本格的な秋到来、でも普通の時期からすれば既に晩秋であろう。 自然まで品格もなし四季もなし”新聞の投句川柳にあった。 まさに昔より随分と変わってきた季節の移りである。おまけに家の庭の小さな秋が今年は全く冴えない。 モミジ、ハゼ、ドウダンツツジなど、枝先の葉っぱは茶褐色に丸まって散る。コブシは珊瑚のような実が実らないまま黒ずんで落ちた。 9月の17号台風の塩害によるものらしく、黄昏の今年の秋をさらに侘しくしている。 我が人生のたそがれを一層誘うかのような、晩秋の庭の色合いである。 とはいいながら、三度の食事時には腹が減り「馬肥ゆるの秋」を過ごしているので先ずは幸せ。 街では早くも年賀はがきの売り出しに次いで、お歳暮商品、お節料理の注文広告も賑やか。 きぜわしさ早まってくる秋の暮れ”(満) |
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232「はちきれそう国文祭」 |
| 天高く秋満開の11月3日第21回国民文化祭が我が山口県で開幕。 今日まで多くの県民と関係者の並々ならぬ努力により取り組まれてきた多彩な行事が、県下一円に繰り広げられる。 いうなれば県内まるごと文化漬けの大祭り、まずはその催しに出向き直に観る、聴く、触れることが肝心であろう。 とはいっても105の種目、県内各地しかも10日間でははちきれそうでとてもすべては無理。 初日は夕方からのオープニングフェスティバルを予定。ところが朝方親切な御仁から駐車場有りの電話で急きょパークロード「時の流れパレード」に駆けつける。 既に人人人の波、平素は閑静な並木街路も大賑わいで高らかなマーチに乗ってパレードは進む。 陽は登り夏日の暑さ、人の頭や肩越しの覗き見は少々くたびれた。 夕方のオープニング行事には混雑を心配し早目に現地へ、それでも入場口は既に長蛇の列である。「燦めきの地やまぐち二千年」歴史ロマンミュージカルは皇太子殿下ご臨席のもと、荘重と躍動の開演。 総勢800余名の出演者は、燦めくライト爽やかな音楽に乗って歌とダンスの65分間に及ぶ熱演、大きな感動と元気をいただきました。 2日目アートふる山口。一の坂川をそぞろ上り下り、家・道・橋・川そして人人、文化一色、昨日より晴れ渡る秋日和であった。 3日目雪舟サミット。内館牧子さんの歴史の街山口について 「何を壊し何を守るか、何を変えて何を変えざるべきか」と舌鋒叱咤。シンポでは、雪舟の没後500年及び没地は諸説あるが、小さな町山口に雪舟の長逗留は確かで今に生きている。国文祭の続きは、また何時の日か。 (満) |
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231「秋の桜・木犀の花」 |
| ある姉様が「これが私ですよ、狂い咲き姥桜一輪」「ホゥー来年はもっときれいに咲くでしょう」といえば「サァーどうでしょうかねぇー」と語尾をあげての返事。 10月も下旬入り、あるゴルフ場のティグランドのわきに、狂い咲く桜一輪をキャデーさんが指してたわいない閑談。 今年は方々で秋の桜が話題を呼んでいる。その原因、9月中旬に来襲した台風13号は雨を伴わず内陸部の樹林までにも塩害をもたらした。 桜も塩風を浴び本来徐々に散る葉っぱが一斉に散る、しかも陽気は春にもまして暖かい。 裸木の桜はまた春かと勘違いして再び花をつけたものである。 ところにより一輪どころか見応えのする桜の花もあった様子である。 一方秋の花で気をよくする家の木犀に今年は異常な現象がうかがえる。 いつも洗面所の小窓から甘い香りを漂わせ開花を告げる背戸の木犀が、いまだ香りの沙汰なし。間近に見ると既に花は盛りを過ぎている、鼻を近づけ匂いを嗅ぐが、うんとも、すんとも香りがない。さては我が家の木犀のみに異変かと、よそを尋ねてみるとどうやら似たような様子。某植物園によれば、これまた異常な気象状況らしく、このところ長く降らなかった雨のせいらしい。 大気中の浮遊粉塵が雨が降らないため多量に漂い、これが木犀の莟に付着して匂い消しの作用をしているとか? はじめて聞く話で少々驚きである。 お天気キャスター村山貢司さんの話では「地球温暖化により今では異常気象(30年に1度起こる気象)が当たり前のようになってきた」とのこと。 それなら桜や木犀は異常気象の現象で当たり前ということになる。あまり騒いでも当たり前ならしょうがなない。 (満) |