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おんなの目

プレゼント(2006年12月23日)

 クリスマスが近づくと誰彼となくプレゼントをしたくなる。なおさら「おんなの目」を読んで下さっている方にはとびっきりのプレゼントをしたくなる。皆様にすてきな贈り物を感謝の気持ちをこめてささげます。私の大好きな詩を受け取って下さい。
 憧れ   吉原幸子
すきとほったものがほしい//すきとほったものが 好き//いろんないろのセロファンで包んだ/きれいな つま楊枝があった/それから/てのひらにくねる/いつまでも裏返ってくねる赤や青のオブラートの魚/ゼリーのお菓子/ビー玉/うす緑いろの おはじき/ガラスは泡ごと固まっていて/のらくろのかほのついた 黒い石けり石//それから/花のつゆをしぼって いろ水やさんごっこ/手もそまる/憶ひもそまる/それから/霧のよるのネオンサイン/それから//すきとほったものが好きだった//あの/すきとほったものたちがほしい/いろんないろの
 吉原さんに最初にお会いしたのは、92年です。その頃、「ラ・メール」という女性詩誌を発行していらして、東京の自宅の2階がその集いの場として開放されていました。そこに行ったのです。吉原さんは当時60歳。すきとおったようにきれいな方でした。強い目の光に射すくめられましたが、気軽に話して下さいました。私はずうずうしくも深夜2時まで側にいました。吉原さんのお心もすきとおった凛とした音のする方でした。
 皆様お幸せなクリスマスの夜をお過ごし下さい。

幸せ(2006年12月27日)

 「幸せ」なんて言葉は小中高生までが使うもので、60歳近い私が言ってはおかしいのだが、毎年、年の瀬になると、自分に問うてみたい言葉ではある。ちまたに「第九」が流れ出すと、長年の習慣でこの1年を振り返ってしまう。そして、自分に聞く。「今年は幸せであったか」と。
 私の幸せの基準は、「元気で楽しく、掲げた目標が成就できたか」である。さて、この1年「元気」で過ごすことは出来た。「楽しく」はどうであったか。「楽しい」は日本語大辞典によれば「心が明るく、浮き浮きする気分」とある。まぁ、これは中位かなぁー、ということは、中位の悲しさもあった。
 「目標成就」はどうであったか。ここ7、8年の私の目標は、「なんとか先生(現在通っているカルチャースクールの村田喜代子先生)に誉められる小説を書きたい」ということである。これは落第。私が80枚くらいの小説を書いて提出すると、数個所認めてもらえることもあるが、概ね及第点にはいたらない。私の小説の一番の欠点は、構成力がない、ということだ。思いつきで書き始めるので後半力がなくなる。尻すぼみの状態。先生に「よくこんなことを考えるね」と言われるユニークな出発ではあるが、それまで。来年こそはと私は早くも闘志をかきたてているが。「今年1年幸せであったか」と自分に問うと、私の心は沈黙する。
 皆様は、「幸せ」な1年でしたか。「幸せ」であった方もそうでなかった方(?)も、どうぞ素晴らしい新年をお迎えくださいませ。

顔を描きます(2006年12月13日)

 何にも用事のない時、ぼんやりと机に座って白い紙に顔を描く事があります。紙は広告の裏。そこに2Bの鉛筆で描くのです。描くといっても、絵心があるわけでもないわたしが描くのは、落書きみたいなものです。
 まず、鉛筆を立てて、美人の条件の一つ、うりざね顔をかきます。これがピタリと決まれば顔の半分は出来上がったようなものです。それから眉です。描きたい女性の顔にあったような眉にします。優しい女にしようと思ったら少し下がった八の字眉に、キッとした人を描きたい時には、つり上がった眉にします。時には平安貴族の女御のようなボアーとした毛糸の塊のような眉にします。その時は、鉛筆を寝かせて紙に押し付け、左右に揺らしてかきます。穏やかな気質の十二ひとえの良く似合う女性になります。
 次は目です。これは切れ長。どんな眉の下にもこの目です。鈴をはったような目は描いた事がありません。鼻は縦にスーッと線を引くだけ。口は、これはもう上とのバランスです。大きくも小さくもします。
 出来あがった顔にしわを一本ずつ描きます。まず唇の側に縦しわ、額に横しわ、1本、2本。これで50代になります。目尻にカラスの足跡。60歳。90、100歳…最後はしわばかりのくちゃくちゃの顔になってしまいますから、紙ごと丸めて捨てます。時々、紙をゴミ箱から拾って広げて見ます。すると、輪郭も目もなにもかもあいまいになり、人生の旨みを全部吸い込んだ味のある顔になっているのです。美しい人知を超えた顔です。

魔が隠している(2006年12月9日)

 先月、2週間の間、眼鏡と腕時計が見当たらなかった。腕時計は家の中ではしないので、外出の時なくなったのだろう。いつも置いてある引出しにないのだ。思いつく所、バッグの中、上着やズボンのポケットなどは全部探した…ない。仕方がないので、予備の腕時計をつけて間に合わせた。
 眼鏡も日頃使う老眼鏡ではなく、遠くを見る時にかける近視用だったので、しばらくないのに気づかなかった。友達と映画を観に行こうとして、眼鏡の紛失に気がついた。心当たりの所はひっくり返して探した。ない…。
 二つの失せ物で私はまいってしまった。不便なので買わねばならない。つまらぬ出費だ。まてよ、物を失ったりするのは、これまでもあったことだ。その度に、どこからか出てきたことが多かった。腕時計と眼鏡も必ずどこからか出てくる、と思った。
 2週間後、いつも眼鏡を仕舞っている引出しのすぐ下をなにげなく開けたら、風呂敷の上にちゃんとあった。眼鏡はすましていた。腕時計は、なぜかスーパーの落し物箱の中にうずくまっていた。それを取り出していると、「魔が隠しているんだよ」という言葉が背中から聞こえた。振り返ったら、80歳くらいの白髪の女性が笑っていた。「時々、魔がいたずらをするんだよ」と私に言った。私はそれを聞いて納得した。魔というものがいるのだ。魔がのんき者の私に喝をいれてくれたのだ。そして、記憶力の極度の低下にしょげている私に哀れをもよおし返してくれた。魔って悪い神ではなく、良い神かもしれない。