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札の辻・21 No.300(2005年11月20日)
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季節の使者ジョウビタキが11月中旬になってわが庭にも姿を見せた。昨年の日記を繰ると10月23日に飛来しているから20日以上も遅れている。庭に1本のハゼノキがあり例年10月中旬になると色づくのだが、これも今年は遅れて11月に入ってから、ひときわあざやかに赤く染まり、ジョウビタキのわたりとハゼノキの紅葉が申し合わせたように同じ頃となった。
ジョウビタキはスズメ大の小鳥でオスは頭部が銀灰色、胸、腹それに腰部は赤褐色をしており、背は黒く羽に白斑があって紋付鳥とも呼ばれている。鳥名由来辞典(柏書房版)によると、周防ではヒンカチ、薩摩でヒンカツとの呼称があるとあった。
田園地帯だけでなく市街地でも見かけるが、庭木や電線にとまって尾を振りながら頭をピョコッと下げる。このときカッカッと音を立てるが火打石をたたく音に似ていることからヒタキと呼ぶようになったらしい。
中国の東北部からサハリンにかけて繁殖し、日本では冬鳥として越冬するが、春になるとツグミなどより早々と4月には姿を消す。
彼等は北国から数十羽の群をつくって海を渡るらしく、対馬列島や九州北部では海岸の杭にジョウビタキが並んで休息している光景が見られると聞くが、カモやツルと違って小さい体での長旅には懸命の飛翔の日々が偲ばれる。
ジョウビタキが現われた頃からつづいていた小春日和は、北国の冷たい日に変わった。
その頃、湯田で包丁ひとすじに生きた割烹亀石の主人が亡くなった。鴨鍋が恋しい。
(鱧) |
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札の辻・21 No.299(2005年11月13日)
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何千年もの間、暗い海底にひっそくしていた朝鮮青磁や中国白磁が、深く遠い歴史を浮かび上がらせるように、いま展示ケースの中で輝いている。
県立萩美術館・浦上記念館で開催中の「東アジア中世海道、海商・港・沈没船」の展覧会を見る。海は太古から大陸と半島それに島々を結びつけて、人間、もの、文化の交流を果たしてきたくらしの揺籃であった。
博多・堺の商人像、豊後府内(大分)の南蛮貿易、大内氏と勘合貿易、琉球、対馬など12〜16世紀にかけて、東南アジアの国々とつながりを持った地域別に展示ゾーンが構成してあるが、やはり大内氏関連に惹かれた。
『周防国山口を拠点とする大内氏は、京都で室町幕府の政治に関与しながらも朝鮮や明との交易も頻繁に行った。また博多へも進出し、当地の聖福寺や承天寺の禅僧に外交の実務をゆだねつつ支配者少弐氏と抗争し、1478年以降は博多の地を制圧し貿易船の根拠地とした。また朝鮮と通交中の1453年には、「琳聖太子入日本之記」という国史資料を朝鮮側に求めている。これを重くみた国王は、室町幕府に派遣する使節を山口に立ち寄らせ、朝鮮通信符を大内氏に交付した』と解説があり、山口市教育委員会からは、大内館と町並遺跡の調査報告が紹介されていた。
黒潮を母体に台湾暖流、蘇北沿岸流、魯北沿岸流を含む東支那海の潮流図も示され、季節風の変化も激しい海域を渡った遣唐・遣明船の航行のきびしさを偲ばせる。
想う、画僧雪舟の山口から博多・五島を経て、さらに寧波への風と雲と波の旅路を。 (鱧) |
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札の辻・21 No.298(2005年11月6日)
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バイカル湖付近から張り出した寒冷前線が南下し、東北や北海道では雪があり、10月下旬ともなれば例年のごとく晩秋から初冬へと、季節の回り舞台も定まってくる。
北風に乗ったちぎれ雲が南へといそぐ肌寒い日に日照雨があって、山口盆地にも時雨の季節が到来した。
本格的な秋を体感したいと思い、山口線に乗って長門峡の「道の駅」へ行く。山口線はたのしい。宮野を過ぎ仁保から篠目へと、いくつかのトンネルを抜ける沿線にススキの群落がつづく。白いススキの間に薄赤く染まったハゼノキやツワブキの黄色が目立つ。
長いトンネルを抜けると雪国であった”という風景にはほど遠いが、篠目駅周辺のたたずまいは、亡き親友が少年期を過ごした土地だと思うと、駅前にある古い家並みにもそこはかとなく懐旧の情が湧いてくる。
長門峡無人駅はわびしい。下車したのは小さい男の孫を連れた老人と私だけだった。駅前にある大きい3本のカエデは梢から色づいていたが、そばの銀杏はまだである。
長門峡駅と違って、道の駅は駐車場もいっぱいでにぎわっていた。
白菜や大根など冬野菜が並んだ市場で、シメジ、掘りたての自然薯二本、阿東豆腐それに山菜おこわを買ったら、地タマゴ6個が御負にあった。
道の駅のついでに長門峡入口で丁字川の淵をのぞく。青く澄んだ水底には動きの鈍くなった大鯉が数匹。遊歩道脇の草むらにムカゴがツルに生っていたので採る。
帰路、つぎは仁保の道の駅だと思いながら、ズボンに付いたイノコズチを払い落とす。 (鱧) |
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札の辻・21 No.297(2005年10月30日)
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関門の潮は時に緩く
時に激しく
西へ東へと全てを
洗い流してゆく
多くの歴史よ今いずこ
ならば今を大切に
あなたの大事な人の
ために、そして
あなたのために
この愛の鐘を
これは、10月15・16の両日下関市で開催された国際ロータリー地区大会(山口・広島)の記念事業として下関市へ寄贈が決まった「愛の鐘」に刻まれる詩文である。
鐘は青銅鋳造で高さ3・5bの塔と共に、水族館である海響館に近い海峡の岸壁に設置されることになった。
関門海峡は周防灘と響灘を結ぶ運河的な存在で、潮流が満潮時には西へ、干潮になると東へと流れる。流速は最高10ノットに達し、1日に4度流れの方向を変える。
海峡の歴史は約800年前の源平合戦がよく語られているが、それより更に古く神話伝説の頃から紀・記の時代を経て、遣隋、遣唐の使節たちも、この青い海の廊下を渡って行った。
今回の地区大会に出席し、会場である海峡メッセ下関の8F展望ルームで満珠・干珠両島から巌流島に至る海峡パノラマを俯瞰した。
「歴史と海峡の町」を合言葉に、下関市は海峡の風景を生かした町づくりを進めており、壇の浦砲台跡に旧長州砲5門を置き、旧英国領事館の整備やサビエル上陸地点記念碑など、対岸の門司を含む海峡観光ゾーン開発の潮音が聞こえてくる。
すでに完成している恋人灯台につづいて「愛の鐘」の音が潮流にひびく日は近い。 (鱧)
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札の辻・21 No.296(2005年10月23日)
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10月8・9日の両日、山口市内は各種の行事にいろどられた。
まず8日は10回目を迎えたアートふる山口のオープニング・セレモニーが行われ、午後からは山口青年会議所の創立50周年記念式典が、そして翌9日には陸上自衛隊山口駐屯地の創立50周年で駐屯地が一般市民にも開放されてにぎわった。
その9日の夜、真昼の秋の陽の暑さを忘れるようにさわやかな夜風の中で、青くライトアップされた瑠璃光寺の五重塔を見に行った。
山口盆地を囲む山々の稜線が薄墨色に溶けて、おあつらえむきに西の空からは栗名月に近づく月齢6・7の月が出てきた。
司馬遼太郎が紀行文学「街道をゆく」の中で「駆けて行って塔の下までたどりついたときは、正面の塔の古色が尋常でないために、自分が幻想の舞台にとびあがってしまったようだった。(長州はいい塔をもっている)と惚れぼれするおもいであった」と書き、やはり昨年の秋、台風の翌日瑠璃光寺を訪れた作家の五木寛之が「猛台風にもゆるがぬ塔に、改めて大内文化の力強さを識った」と著作「百寺巡礼」に書いたごとく、この夜の塔は中国の文化を積極的に求めた「唐様」の室町建築がもつ雄渾と優雅の姿を、5層の塔屋に青く浮かび上がらせており、とくに塔の最上部にある相輪は、ひときわ青く闇の中にきわ立って見えた。
塔の下部から、白妙の衣装をまとった中世の女性が現れてくるようで司馬遼太郎の幻想の舞台に通じるものを感じる。
コミュニティバスに乗りゆっくりと帰る。塔がとっても青いから。(鱧) |
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札の辻・21 No.295(2005年10月16日)
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川の流れはいつしか海に溶けこみ、河口の風景だけは遠い時間の記憶をよみがえらせてくれる。
きらら博開催時期以後を知りたいと、重く暗い雲の重なった午後、阿知須のきらら浜に行く。
草紅葉を織りまぜた草原がひろがり、その向こうに鉛色の周防灘が空につながっていた。
渡り鳥の交差点と呼ばれている自然観察公園はまだ渡りの季節を迎えたばかりで、河口近くの砂地を走るコチドリを一羽見ただけ。
近くに「道の駅・きららあじす」ができているので立ち寄る。
午後おとずれたせいで地元産の新鮮野菜や農産物はすでに売り切れで、店内にある鮮度抜群!といさましいあじす新鮮魚市場をのぞく。
コノシロ、サワラ、アジ、サバ、イカ、イイダコ、キス、メゴチ、レンチョウと阿知須の海でとれた魚類がズラリと並びシジミまである。いずれもすぐ包丁でおろしてくれる。大型水槽ではチヌやハモが悠々と泳いでいた。
めずらしいのでレンチョウを買う。
レンチョウはウシノシタ科で広島や山口など瀬戸内の方言でレンチョウである。体形が牛の舌に似ており色が赤褐色なので、関東でシタビラメ、北陸ではアカウシノシタとも呼ばれている。
フランス料理ではよくムニエルやフライ、ソテーで登場する。
これで山口には仁保と阿知須に山と海の道の駅があることになった。
きららスポーツ公園の多目的ドームを展望しながら帰路につく。
薄ずみ色の雲のひだから、わずかに秋陽がこぼれていた。
(鱧) |
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札の辻・21 No.294(2005年10月9日)
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徳地と仁保の境界にある枡谷峠と松柄峠近くを源流とした金坪川や水尻川は仁保川に流入し、やがて問田川も併せて椹野川となる。
流程30・3`の椹野川は、新しい市制が誕生したので、文字通り山口市内をひとすじに貫流する母なる川となった。
椹野川漁協などが、椹野川の魚類12種の美味・珍味を紹介しているが、それはアナゴ、コイ、ゴリ、ナマズ、スッポン、モクズガニ、ベヘレイ、フナ、アユ、ウナギ、ハヤ、ブラックバスの料理法である。
江戸時代の椹野川に棲息する魚族が、天保年間調査の防長風土注進案に記録されていた。それによると仁保、宮野、平川などで獲れる川魚は、ハヤ、ナマズ、アユ、フナ、コイ、ウナギ、ドジョウ、ゴリ、ヤマメでサンショウウオもいる。
同注進案第14巻、小郡宰判には阿知須が阿知須浦として登場する。
地名の由来については「当浦に長さ六百間、幅一間半の洲ありて海面に出づ。この洲に小鴨の群れ遊ぶこと常なれば、浦を阿知須という。古老の伝承によれば、古歌に小鴨を阿知と詠みしことより阿知須となれり」との解説がつく。
その阿知須浦の魚類調べでは、すべてが海産魚となる。
スズキ、タイ、カレイ、キスゴ、ハモ、アジ、イカ、サザエ、タコ、カキ、ハマグリ、マテ、エビ、ナマコ、ブリ、イワシ、イナ、エイ、アナゴ、ハゼ、アブラメ、エソ、コチと豊かだ。
川にも歴史があり、その流れをたどることによって、先人たちのくらしが瀬音と共によみがえってくる。 (鱧) |
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札の辻・21 No.293(2005年10月2日)
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百済・大内文化交流研修会に同行し、宮崎県の南郷村を訪ねた。
早朝7時山口をバスで出発して南郷村に夕刻到着、日向市に一泊したあと2日目は宮崎、熊本、大分、福岡を経て帰山というコースだった。
往路、熊本から宮崎へと国道388号線で、五ケ瀬川沿いの風景におどろく。あの台風14号での被害が眼前にひろがるからである。
五ケ瀬川は阿蘇山に源流をもち途中に高瀬峡もあって、筑後川に並び九州を代表する流程92`に及ぶ大河である。国道脇のガードレールは上流からの流木などがからみ、両岸の民家はまだ床上浸水のあと始末がつづけられている。落ちた鉄橋、線路の曲がった高千穂鉄道など車窓に目を奪われた。
九州山地の南郷村は彼岸花が満開で、村の中央を流れる小丸川も水量ゆたかに、台風一過の山里の姿を見せていた。
南郷村は672年、古代史上最大の動乱といわれた壬申の乱を逃れ、はるか日向の浜に漂着した帰化人、百済の王族禎嘉王一族が南郷村に定住したといわれ、王族を祀る村の神門神社に、14世紀時代の銅鏡33面があり、奈良正倉院の銅鏡と同じであることから、奈良と実物大の西の正倉院を10年かけて造営した。
その正倉院で、南郷村の原田課長から、床下2・5b、高さ13bで4階建ビルに匹敵する西の正倉院が実現までの苦労話を聞いた。
実現できたのは人口2千人の村人たちが心を一つにした努力だという。
帰路、ススキの大草原・阿蘇を越えたが、日向路の水は至る所に焼酎を生んでいた。
(鱧)
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札の辻・21 No.292(2005年9月25日)
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旧暦8月15日夜の月を名月と呼ぶ。現行暦では9月9日から10月8日の間になる。もっとも旧暦8月15日の月が必ず満月とは限らない、それは月の軌道がかなり長円形で運行速度が同一でないことから、満月の日付と月齢が一致しないことがある。ことしは9月18日の夜が名月となった。
日本人は古くから月の持つ神秘性をいつくしみ、全国的に満月の夜にはススキの穂や月見団子に季節の果物などを供えて、月に祈る風習を行事的に伝えてきた。
元侍従長入江相政氏の「宮中歳時記」によると、醍醐天皇(897年)の頃から宮中行事として名月を賞でる宴が始められたが、現在は宴の催しはなく、吹上御所で両陛下だけで静かに月見を楽しまれる。当夜は、お居間のテラスに小卓が置かれ花瓶に秋草を飾っての夕食となる。
秋草は吹上御苑に咲くススキ、ハギ、オミナエシ、ワレモコウ、フジバカマなどの数種類が用意される。月見の膳は里芋の衣かつぎ、枝豆、串だんごにふだんのおかずが出されるだけの質素なものとされている。
田んぼの畦に秋をふちどるマンジュシャゲが咲きはじめた夜、わがグループは例年どおり湯田温泉は「中也の宿」で月見の会を持った。
仲間のひとりが花屋さんであるため、こもかぶりの空き樽に、丈3bもある大ススキ、ハギ、キキョウ、粟の穂まで豪快に活けた会場で、菊のひたし、里芋のとろ煮などで芋名月の酒を汲み交わした。
芋名月に次ぐ十三夜の栗名月は10月15日となり、そして23日は中也忌にあたる。
(鱧)
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札の辻・21 No.291(2005年9月18日)
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「旅のみやげは石に限る」と題し、伊良湖岬や伊吹山など旅で拾った石には、その数だけの思い出があるという一文が新聞の投書欄にあった。
私も旅先で小石を拾い記念にしている。県内の錦帯橋河原の石をはじめ上高地、奥入瀬峽、納沙布岬などだが、印象に深いのは沖縄の名護湾海岸で拾った砂れき化した白い珊瑚石である。
かつて東支那海に存在した琉球王国は、日本をはじめ中国から東南アジア諸国に及ぶ交流により、首里城や琉球紅型に見られる独特の文化圏を完成させた。その名護の海は小説の題名の如く限りなく透明に近いブルー”だったが、シラマーと呼ぶ砂浜で得た石からはあの太平洋戦争末期に、本土防衛の犠牲となった沖縄住民の苦しみがよみがえってきた。
ジャングルを逃げまどい、やっとたどりついた海岸は砲火の待ちうける非情な海だったことを思えば、手にした白く乾いた石が心に重かった。
国外ではパリで無名画家たちが集うテルトル広場で拾った絵の具の付着した小石もあるが、忘れ難いひとつは、90年の初夏、NNN報道局長会で東欧を視察したとき、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が破壊された現場の石である。
ポツダム見学から帰った夜、東ベルリンの暗い酒場で、その石を前に若い革命家たちから壁崩壊の裏話など聞いた。あの日はソ連軍警備隊の銃口が並び、西側TVカメラの砲列の中で重苦しい作業が行われたのだと。
ひろってきた石たちは無言だが饒舌である。
芭蕉は旅の野に石を抱き寂を知った。 (鱧)
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