| 札の辻・21 No.520(2010年4月10日) |
古川薫著ものがたり英雄叙事詩「三国志・秋風五丈原」下巻が出版された。三国志は蜀、呉、魏による覇権争いの波乱万丈なる壮大なドラマで、黄河流域に発して長江に及び更に現在の成都を中心にした四川省、甘粛省奥地までが舞台となって展開する。
中国には往古から「中原を制するものは中国を制す」という言葉が残されている。
黄河は全長5464?で、その大部分は黄土大地であり降雨量は年間約16億?に達し、下流流域に運ばれる土砂は毎年約4億?に及ぶから、河床に堆積すると河床は年々10?程度上昇するといわれている。
この広汎な黄土大地に生まれた三国志は、歴代の中国歴史書の史記、漢書、明史などのように「史」と「書」でなくて「志」である。志は誌につながる群雄割拠の悠遠なる国土誌を意味する。
古川氏はあとがきで三国志に登場する人物は正確に数えるとおよそ4000人に及ぶが、今回はひとかたまりの単位制に解体し配列した分子記号のような世界で、それを有機的にしたと述べる。
叙事詩の終結は諸葛孔明の五丈原陣没で、哀惜の詩情を湛えた土井晩翠の「星落秋風五丈原」に余韻を残す。
北宋の詩人蒋之奇にも「五丈原懐古」がある。
長星墜つるなかりせば
中原を席巻する
未だ知るべからず
大陸からの黄塵に三国志を想う。(鱧) |
| 札の辻・21 No.519(2010年4月3日) |
ことしの彼岸も墓参のため旧熊毛町へ友人の車に便乗して帰省した。
防府から椿峠を越え周南市に入ると、山陽自動車道沿いに植栽されたコブシが、白い気品のある花を枝いっぱいにつけているのが目立ち、周辺の山並みが山眠るの季語から山笑うへと芽吹きの気配を見せ、落葉樹林を背景にした光景は例年の墓参を楽しくしてくれる。
従来春の花といえばサクラを指す場合が多く、花見、花時、花衣、花曇、花吹雪、花冷えなどの語句もある。
しかし古くから日本人はサクラだけを花としたのでもない。万葉集も後期には中国文化の影響をうけ、花を観賞するおもむきも歌の上に現われ、サクラよりもむしろウメやモモの花が登場するようになる。
コブシはモクレン科だがモクレンとは花の色が異なり、3枚の小さな萼片と6枚の大きな花弁にかこまれて、多数の雄しべと雌しべのあることはよく似ている。コブシは歌謡曲の「北国の春」にも歌われているが、日本列島の比較的低山地帯にある雑木林の中に自生し高山地帯の山深いところでは、コブシによく似たタムシバ(ニオイコブシ)の方が多く、かつて作家堀辰雄に木曽路を旅して「辛夷の花」という作品があるが、木曽地方ではコブシではなくタムシバだけという。
いずれにしてもコブシ、タムシバ、ホオノキの白い花は行く春の句読点となっている。(鱧) |
| 札の辻・21 No.518(2010年3月27日) |
春の海は潮の色も変わり冬の鉛色からあざやかな藍色になるという。旧暦の3月3日(現行暦の4月中旬)には大潮を迎えて一年中でもっとも干満の差が大きくなり、遠浅の海岸では広く砂泥地が露出する。とくに淡水と海水が混じり合う河口の汽水域では、アサリ、ハマグリ、マテガイを求めて干潟の潮干狩がにぎやかとなる。
東京湾をはじめ伊勢湾、瀬戸内海沿岸、九州は有明海と日本列島を代表する汽水域では多種な貝類に恵まれてきたが、昭和30年代からはじまる工場用地拡張や団地造成で海浜部は環境が変化し、山本周五郎の名作「青べか物語」の海も昔日の面影は無くなっている。
しかしながら縄文時代の貝塚にアサリ、ハマグリの貝殻が出土するように、日本人は古代から貝類を食べており、文献でも奈良朝時代の常陸風土記や出雲風土記には貝が登場する。平安貴族の文学的な遊びには「貝合せ」もあった。
椹野川河口の汽水域も室町期以前から山口盆地の人たちは春の大潮に食生を求めたことだろう。
戦後間もなくNHKラジオ歌謡に「さくら貝の歌」があった。
うるわしき
さくら貝ひとつ
去りゆける君に捧げん
この貝はこぞの浜辺に
われひとり
拾いし貝よ
さくら貝という貝は実存しないが、この歌は春潮のごとくひたひたとよみがえってくる。(鱧) |
| 札の辻・21 No.517(2010年3月20日) |
サクラ前線が沖縄から奄美群島、薩南諸島を経て近づきつつある。
植物の発芽、開花、動生物の出現、野鳥の啼鳴など白地図に記入し等期日線を引くと、それぞれの移動期日がはっきりする。そのうち、とくにサクラや菜の花などを気象前線になぞらえて呼称することを花前線という。
サクラの仲間は本州中部以南に多いヤマザクラ、江戸期の交配種ソメイヨシノ、伊豆七島に多いオオシマザクラ、北海道や東北の亜高山地帯に生えるチシマザクラといろいろで、40年前にネパールから到来したヒマラヤザクラは熱海のように暖地では寒中に咲く。
日本文学のよき理解者でもあるドナルド・キーン氏は「古くからの日本の和歌を読むと、つくづくサクラとモミジがいやになるほど出てくる」と言っている。
王朝文学研究家佐田公子さんは「我々日本人は日月の循環の中に必ずサクラとモミジを存在させる。古代に文学様式が形成されて以来サクラとモミジは繰返し表現され論じられる永遠のテーマとなり、文学に遠い人でも日本の土壌に育てばその人しか持ち得ない固有のサクラでありモミジなのだと思う」と言った。
ひと目千本といわれる吉野山のサクラも、古くから植栽育成に努めた修験者たちによって全山の花となる。
さくらまんかい
にして刑務所 山頭火
1938年湯田「風来居」での句である。(鱧) |
| 札の辻・21 No.516(2010年3月13日) |
明日から大相撲春場所が大阪ではじまる。
朝青龍、千代大海の引退、貴乃花新理事就任など相撲協会と共に土俵上の新陳代謝など話題豊かに注目される場所だ。
朝青龍は独特なキャラクターを持った力士で、三役の頃まではただ負けず嫌いのハングリー精神横溢を感じる力士だったが、横綱になると我がままで異状な態度が目立ってきた。遂には泥酔して一般人を殴打負傷させる事態に至る。
朝青龍の天敵と呼ばれた元横綱審議委員の内舘牧子さんは朝青龍の引退に際し『彼の引退で寂しくなったという声もあるけど、作家でもスポーツでも誰かが居なくなれば次が必ず出てくる。余人をもって代え難いとよくいうが、この世は余人だらけである。必ず朝青龍に代わる力士が出てくれる。私にとってビン付油の匂う世界に10年も過ごさせて頂いたことは幸せだった。心残りは日本人横綱ができなかったこと』と語っていた。
また作家野坂昭如氏は『角界は大いにゆれている。日本の国技はいまどこへいったのか。伝統相撲と神事が渾然一体化しているのが大相撲の世界だ。子どもたちが草の上でとっ組み合いをしなくなって久しい』と嘆く。
さて先場所12勝3敗で敢闘賞を受賞した郷土力士豊響に「平成の猛牛」復活の期待は大きい。また郷土力士豊真将には出足に力強さが欲しい。
ふたりの相撲が難波に塩の花を添える。(鱧) |
| 札の辻・21 No.515(2010年3月6日) |
いきいきと三月生る
雲の奥 龍太
この句はあざやかに三月に春到来を感じる句で、二月の寒さの中でなく四月の温暖さでもない。まだ少しは冷えこみも残る浅い春であればこそ三月生るの語感が生きる。
ことしの寒波の異常さは型破りだった。立春以降は三寒四温と呼ばれ三日寒い日がつづくと次には暖かい日差しを期待するのだが、例年になく寒冷前線はどっかりと腰をおろしつづけた。
しかし2月末からわが庭の馬酔木が白い房状の花をつけ、コブシもひそやかながら咲いて春めくということば通りに水ぬるむ時期を迎えた。
中国の詩人蘇東坡の絶句に、
春江水暖鴨先知
の一節がある。
「春の川に水温めば鴨が先ず知る」という意味で、近くの仁保川の冬鳥たちも北帰行が始まり居残り組のカイツブリ夫婦が目立ってくる。
海にも春潮が寄せ旬の味覚の表現には二・三のメバル、三・四のカレイがある。どちらも早春の魚族の代表格でメバルは日本列島沿岸の岩礁地帯に棲息し、白身で淡泊な味は煮つけによく塩焼きや唐揚げにもいける。
アイヌでは雪解けで長万部の山々にカレイの型をした雪形が現れるようになるとカレイ漁をはじめるといわれてきた。
カレイ料理もメバル共々に早春の食感を豊かに舌へ乗せる。(鱧)
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| 札の辻・21 No.514(2010年2月27日) |
2月13日(土)第14回菜の花忌(司馬遼太郎)は、今年も大ステージを3500本の菜の花で飾る日比谷公会堂で開かれた。
開会のあいさつで司馬未亡人福田みどりさんは、同じサンケイ新聞の記者時代の仲間だった思い出をエピソードを交えながら司馬氏に語りかけるように話した。
シンポジウム「坂の上の雲と日露戦争」で、パネリストの映画監督篠田正浩氏は「坂の上の雲」の書き出しは「まことに小さな国が開花期をむかえようとしている」で他の司馬作品「世に棲む日日」も「長州の人間のことを書きたいと思っている」と、川端の「雪国」のように情景発信でなく情況把握の書き出しは記者出身らしく、明治という新しい国づくりの中を駆け上った群像の生きざまが赤裸々にされたと話す。またパネリスト評論家松本健一氏は「坂の上の雲」の舞台四国松山は“春や昔十五万石の城下かな”と子規の句があるように文学的風土である。幕末維新に関わりなく正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、中村草田男などの俳人が輩出し、松山で中学教師をした夏目漱石を加えるとまさに「俳句と坊っちゃん」の町で政治家はあまり存在しないと語る。やはりパネリスト黒鉄ヒロシ氏は、坂の上の雲の色は読む度に白、灰、黒と変わり明治は日本の青春だった。それにしても今の若い世代はもっと読書して欲しい。雲の色を見極めるためにも―。(鱧) |
| 札の辻・21 No.513(2010年2月20日) |
―留萌の沖あたりから細い雨が降り出した。漁夫や雑夫は蟹の鋏のようにかじかんだ手を時々ふところに突っ込んだりする。納豆の糸のような冷い不透明な雨が海に降りつづけた。―小林多喜二の小説「蟹工船」の一節である。
プロレタリア文学の中心的作家多喜二は今日と同じ1933(昭和8)年2月20日に非合法活動を糾弾する特高の拷問により、東京築地警察署で午後7時すぎ絶命したが30歳で当局は死因を心臓マヒと発表した。
小林は秋田の大館生まれで、北海道小樽高商(現小樽商科大学)を卒業、北海道拓銀に勤めながら同人誌を創刊後「蟹工船」「不在地主」によってプロレタリア文学に傾注し銀行は解雇となる。
彼の作品は特定の主人公を定めず典型的な人物像を描く手法で、全編に流れるヒューマニズムはユーモアにも溢れ外国でも翻訳された。
小樽は石狩湾に面した港町で地名はアイヌ語のオタルナイ(砂だらけの川)よりの転化である。天然の良港で明治開国以来、ロシアをはじめ諸外国との交易や樺太との連絡港として、またニシン、カニ漁など北洋漁業の基地ともなる。
北洋漁業といえば先月末に、日本漁船2隻が北方領土海域でロシア警備隊のヘリコプターから銃撃を受けた。
明治から現在に至るまでオホーツクの波濤と海の男のしがらみは流氷のごとくつづく。 (鱧) |
| 札の辻・21 No.512(2010年2月13日) |
テレビ朝日「徹子の部屋35周年記念番組・故森繁久弥特集」で久しぶりの森繁節が面白かった。
山口市の旧秋穂町町史(昭和57年版)には大要次のように記述がある。
−森繁家の実弟平三郎は大阪の豪商馬詰家のマスと結婚、その孫の久弥を森繁家に入籍する。森繁久弥も日本経済新聞の「私の履歴書」に私は幼時山口県秋穂の森繁家に養子として入籍され、今も墓参すると書いている−と。
山口放送がまだテレビ放送を始める前のラジオ山口であった頃、森永ミルクのキャンペーン「こどもの日シリーズ」の公開放送で来県した森繁久弥氏と、放送終了後スタッフと会食をした。そのとき森繁氏は終戦直後に満州から引き揚げたとき、秋穂森繁家の親戚がある徳山市戸田に家族でしばらく居住したときの思い出を語った。
森繁久弥の著作は「にんげん望遠鏡」など10数点に及ぶがその中に、
「私は生まれたときは菅沼久弥でした。父は菅沼達吉、長兄は母の実家馬詰家を次兄俊哉が菅沼家に、末っ子の私は祖父森繁平三郎の実家に入りました」。「森繁家は船問屋でした。その森繁家と東宝の藤本真澄が遠縁に当るので、二人で秋穂の学校へピアノを贈りました」とも書いている。
亡くなった森繁久弥の居間の書棚には「小林和作画集」と「中原中也詩集」があったと聞く。
秋穂の海にはモリシゲの舟唄が合う。(鱧) |
| 札の辻・21 No.511(2010年2月6日) |
先日NHK松山放送局主管「俳句王国」の投稿句の中に、
小さき靴一二三四
春を待つ
という目線を幼児に置くほのぼのとした入選句があった。
暦の上では大寒が過ぎ節分があり立春を迎えても、寒冷前線は寒さの帳を除けようともしない。春浅し、春めくという自然のきざしを待ちわびる感じの冒頭句と同じ想いの童謡「春よ来い」が浮かんでくる。
春よ来い 早く来い
あるきはじめた
みいちゃんが
赤い鼻緒の
じょじょはいて
おんもへ出たいと
待っている
この歌の作者は早稲田大学の校歌「都の西北」を作詞した早稲田文学の編集者相馬御風である。
御風は自然主義文学の評論家で詩人だった。三木露風、野口雨情らと詩社も結成し、島村抱月と合作した?カチューシャの唄?は大正ロマンの伴奏詩ともいわれる。
晩年は新潟の糸魚川に帰郷し、やはり雪国の越後でひとり思想生活を送った僧良寛の研究に没頭する。
一切の欲を捨て、村のこどもたちと無心に交わった良寛に歌がある。
霞たつ長き春日に
子供らとあそぶ春日
は楽しくあるかな
春よ来いの歌は素朴で暖かい良寛の心象風景に重なったかも知れぬ。
赤い鼻緒も小さい靴も四温の日溜りをあこがれている。(鱧) |