「みなづき」は「水のある月」。田圃に水が引かれ田植の月。我が家の周囲も住み始めた五十年前には一面の田圃だった。水が張られると水面は、初夏の日差しにまぶしく光った。今は、二階の窓から首を伸ばすと、住宅の屋根の間から少しだけ残った田圃が見える。そこだけは、長く人の命を繋いできた米を実らせた威厳に満ちて、変わらず光っている。
時は流れ、景色が変わるように、私の日常も当然変わる。
新聞の「民意が大事」という箇所を「尿意が大事」と読み間違う。民と尿、似ているではないか! 先日、友人に出す手紙に「妻」と書くところを「毒」と書いてしまった。ケースから取り出した丸薬は、意志があるかのごとく床に転がる。這って探したが見つからない。しばらくすると埃にまみれて家具の隙間から出てきた。お気に入りの靴下の片方は見つからない。草取りをすると、アッと思った時には、芽の出たばかりのホタルブクロを抜いている。
Aさんと朝の散歩の約束をした。「七時(しちじ)にね」と言ったのにAさんは来ない。彼女には「八時(はちじ)」と聞こえた。私の前歯には隙間があって「し」と「は」は同じ発音になる。水の流れと同じように、毎日変化があって楽しくてたまらない。